ハイドン全交響曲を関わり始めた経緯  その2

2015年1月3日 追記 
 スコアを見ながらのハイドンの魅力について、先ほど記載をした。全ての曲のスコアを見ながら、視聴をするには、限度があるかもしれない。しかし、見ながら視聴をすると、その面白さは倍増する。私自身、調性は和音などの細かいところまでは理解ができないが、下記のサイトに、指揮者としてのこの考えからについて理解の手助けになる。ここでは、No.100 第1楽章の序奏の部分で、G調でありながらも、1オクターブ12音のすべてが、すでこの序奏の中に奏されていると記されている。
http://dialzero.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-46ec.htm
 また、ここでは、ハイドンの魅力のたとえとして、落語と漫才の比較がある。 落語を楽しむためには何がくるのか、ある程度予想をたてたり、どうなっちゃうの?などの知識や事前の予習が必要となる。「このメロディーがきれいだな」とか、「分かるよ~」みたいに、単に与えられたものに対して同調するだけでは、ハイドンの面白さは、分からない。ハイドンを聴くには、落語の様に、視聴者側にも、それなりに知識や予習あ必要となる。これに必要なのは、スコアや当時の作曲された背景(演奏者、演奏会場、聴衆者側のTOPなど)も、ある程度、知っておく必要あある。このため、ハイドンを、ハイドンを聞く・演奏するときには、「能動的」でなければならない。 スコアを見ながらの視聴も、このスタイルにあったような気がする。ある程度の経験み必要となる。
 それに対して、漫才は、直接的で、考ええる時間を与えない。与えられているギャグがはまるかどうか。聞き手は受動的な聞き方のスタイルとなる。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

tag : ハイドン 音楽史 スコア

音楽史の中のハイドン2 9.副題から見られるシンフォニーの人気 その34-36

9.副題から見られるシンフォニーの人気
(その34) 交響曲の生涯にも記載がしてあるが、「副題は人気のバロメーター?」も、興味深い。ハイドンの交響曲は、副題を伴うものが約30曲知られている。しかし、生前に、付けられたものは、数曲に留まる。以下の通り。(他にもあるかもしれないが)
No.7:昼
No.26:ラメンタチオーネ
No.45:告別
No.69:ラウドン
No.73:狩
No.100:軍隊
上記以外は、没後、すなわち1809年以降に付けられたとされている。いつごろから付けられたかを断定するのは、そもそも誰が命名したのかも、はっきりしていない点も多いと思うので難しい。ましてや、誰が、どの地域から命名が始まったのかを調べるのはさらに難しい。副題(ニックネーム)の由来の調査もある程度、限界はあろう。
(その35)
 副題を持つ約30曲近くは、没後に、しかも様々な由来で命名された。交響曲の生涯にもこの当たりについて記述がある.。ハイドンの場合、その殆どがハイドン自身でなく、後年、多くは19世紀に入ってから命名されている。作曲家の知らぬところで副題が付けられたということは、それが非常に広い範囲で演奏され、親しめられていたことを示す。シンフォニー自体も、作曲者自身の通し番号がない。約100曲近くのシンフォニーが印刷楽譜等を通して、後年広まった。これらのシンフォニーを、それぞれ区別する方法としても、副題が付けられたものも原因と思われる。一番多いD調のシンフォニーなどは、22曲にも渡り、区別がさらに難しい。
 交響曲の区別の方法としては、この頃は、大体、調性のみで、区別をされていたと思う。たとえば、ロンドン ザロモンコンサートのプログラムを見てみると、より明白になる。一例として、副題が初演当時は、殆どなかたため、○調のシンフォニーの記述となっている。副題が、付けられる理由の一つには、交響曲の自律化、大衆化とも大いに関係がある。自律化とは、何度か、このコーナーでも記述をしたが、コンサートの額縁、フレームとしての位置づけからの進化したこと。大衆化とは、限られた階層が中心の宮廷を中心とした会場から、大衆(といっても裕福な市民が中心だったが)へ、聴衆が広がったこと。これにともない、交響曲も一部の階層から大衆に向けて、変化をしたこと。
 
(その36)一方、作曲家が自ら、出版に際し、不特定多数の聴衆を意識していた。副題をつければ、その作品の流布に際して、大きな期待を寄せていた証拠にもなる。1782年にハイドンはヴィーンのアルタリア社の手紙で次の様に記している。アルタリアはハイドンの交響曲No.69のピアノ編曲版を出そうとしていた。ハイドンはそのフィナーレは、ピアノ編曲には向いていないと考えた。「ラウドンという名前を付けるほうが、フィナーレを10通り書くよりも、ずっと売れるであろうと」述べている。ラウドンは当時のオーストリアの有名な将軍ラウドン元帥に因んでいる。

音楽史の中のハイドン2 8-1 その31

(その33)エステルハージ候からの離れた、自由な出版に関しては、その4でも一部言及した。ハイドンの候との新たな契約が1779年1月に締結されている。ここでは、候の許可なく出版しができない条項が削除されている。裏を返せば出版に関しては、ハイドンは自由になった。これは大きな展開であり、従来は、クラヴィーアソナタの候の許可を得た、出版を例外とすれば、画期的なことであった。
 1779年といえば、丁度、その26の表では第3期の後半に当たり、著しく出版が増えて、それ以降も人気作品が続くものとほぼ一致している。

音楽史の中のハイドン 8.印刷楽譜の筆写譜の比較 その31~32

8.印刷楽譜の筆写譜の比較
(その31)
 海賊出版が多いときと、作曲家が公認で正式に出版した時期(概ね1781年)からとを比較するには、初版だけでなく再版の回数や、初版、再版のそれぞれの出版社数、あるいは、各発行部数などを含めて調査すると良い。そうすれば、より一層、楽譜のトータルの売れ行きが良く分かると思う。偽作については、かなり解明されて、真作のシンフォニーが選定されている。真作でも自筆楽譜が半分以上、現段階では存在していないので、作曲年代ひとつをとっても確定が難しい。筆写譜等から作曲年代は確定しているものも、解明されてきた。
 それに加えて、当時の人気のバロメーターは、印刷楽譜がヴィーン以外では主体であろう。しかし実際には、これらの調査は、この紀要のデータでも、解明が十分されていないので、難しそうである。また、地元のヴィーンを含むオーストリアは(その45)でも記載をしたが、1780年頃以前は筆写譜がまだ、流行していた。印刷楽譜は、流通が限られ発見されていないものも多い。このため、当時どの程度、実際に人気のあったシンフォニーを調査するには、限界があるようだ。

(その32)
 印刷楽譜だけで、人気の判断がしにくい例として、No.54がある。井上著のNo.54の部分では、1774年の作曲(自筆楽譜あり)だが、fl.とtrp.のない筆者譜が多くあることから、これらの楽器は後から加えられたと記載がある。No.53と同様に、序奏は後から加えられた。
 後から序奏が加筆されるほど、人気の一つではなかったと思う。ハイドンの交響曲は、ロンドンシンフォニーでは、1曲を除いて、全て序奏が付いている。またロンドン渡英前のシンフォニーも序奏が付くことが多い。
 それに対して、No.54の作曲された頃は、序奏は、付かなかった例も多くあるのとは対照的。No.54は、印刷楽譜では、生前時代、パリの1社しか、出版されていない。しかも出版は1778年以降。裏を返せば、まだ筆写譜が広まっていて、かつ人気があった根拠でもあろう。しかしながら、印刷楽譜としては、まだ人気がなかった例のひとつとも解釈できると思う。

音楽史の中のハイドン2 7.生前の人気作品も晩年になってからが多いかも その27-30

7.生前の人気作品も晩年になってからが多いかも
(その27)
 第3期以降、概ね、60番代を一部含む81番までは、アルタリア社等の複数の出版社から、作曲者が公認で出版されている。このため、ヴィーンを含めた各国で、ランク1でも複数以上で出版が明白となる。またランク2の過去10年以内の出版も当然のごとくクリアし、作曲後、程なくしてすぐに出版されている。また76番以降は、5社以上からセット販売がされている。このデータは、この欄には、記載をしていないが、これらも加味すると、出版が生前から多かったことが分かる。当然のごとく、ランク3の総合評価でも、印の付くものが大半となる。
 それに対して、1781年頃より前の出版はどうなるか? この頃より前は、少なくとも交響曲に関しては、作曲者が出版社と殆ど、正式に契約を交わしていなかったであろう。1774年頃の67番頃以降について。それより前は、パリが先行して出版をしていたが、この頃より、ロンドンの方が早くなっている。この当たりから、イギリスでの人気が高まったことが考えられる。
(その28)
 特に、No.53は、フランスよりも2~3年前に既に、ロンドンで出版され、1781年のロンドンでも演奏会として登場した記述がある。(音楽の友社 名曲解説全集 補完 No.53 参照)パリからの要請で、6曲のパリシンフォニーに至ったのは周知の通りである。しかしながら、ロンドンがパリより先行して出版された理由からも、ロンドン渡英に結びついた根拠にもなろう。さらに加えて No.75は、当時人気の作品のひとつで、91年に作曲者がロンドン渡英のときにも演奏されていた。(井上太郎 著 ハイドン106の交響曲を聴く。 75番のからの引用) 50番代から80番台のシンフォニーの一部はロンドンでも人気だったようだ。
 今後の調査のひとつとして、ロンドンでの演奏会でのプログラムもポイントの一つになろう。ただし、過去のシンフォニーでも、聴衆の好みに応じて、作曲者なり、プロモーターであるザロモンが、手持ちのシンフォニーを選別した可能性もある。(イギリス人が欲するタイプのシンフォニーは演奏されなかったなど) 
(その29)
 それよりさらに遡る第2期の1768年頃~1781年頃のオペラ時代を含む部分。ここでは、交響曲は、精力的には、作曲されなかったと思われる。1761年に副楽長に就任してから、1768年の楽長に昇格する頃と比較すると、さすがに、出版社数は少しはある。しかしながら、1781年頃以降と比較すると、数はまだ、明らかに減っている。しかも、ランク2でも数が減っているように、かなり作曲年代が経過されてから出版されたものが多い。40番台から50番代は、パリの出版が先行しているのとは、対照的である。
 この中の No.41に関して。ゲルラッハは1768年の作曲年代としているが、この時期に、「ぽつん」と4社から出版され、しかもNo.20と比較して数年以内の発刊となっている。同じ頃の作品も、複数出版されている。しかしながら、発刊時期が遅れている。やはり当時からの人気作品であったと思われる。井上著のNo.41の部分では、ランドンの「このときまでにハイドンが書いた祝祭的なハ長調の交響曲の中で、最も輝かしく、かつ最も成功した作品」とい評価の記述がある。著者の同様に評価をしているが、私も同感だ。

(その30)
 ましてや、第1期の1761年頃以前に関しては、生前は、殆ど出版されていなかったことが分かる。その5で生前の人気作品のひとつは、20番か? と記載をした。確かに4社から出版されている。これに続くNo.10も3社から出版されているが、いずれも、作曲されてから、かなり年月を経てからのものである。その19では、晩年に、シンフォニー全集の出版に関しての怒りを記載した。これは、生前でも晩年(ロンドンでの人気以降でヴィーンに戻ってからの話)のことである。生前でも、渡英前では異なる可能性があると思う。
 すなわち、ロンドンでシンフォニーは大成功を収め、数年以内に様々な編曲の形でも出版された。ハイドンのシンフォニーは、大きく広まった。当時の人気作品は十分に分かる。それに対して、ロンドン渡英前で、パリでの人気が出始めた頃は、まだ、シンフォニーは、それほど、人気が十分でなかった可能性がある。ロンドン渡英後に、さらにブレイクしたのではないか。
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